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 第50回 「動脈硬化」
 例年冬になると、クリニックの近くの新宿御苑にホームレスの人たちの為の一時簡易宿泊施設が作られ、常時100名近くの方が宿泊しています。さくら寮と言うかわいらしい名前の施設ですが、収容者の多くは昨日まで路上で寝泊まりしていた為に健康を害している人が多く、治療を受けに我々のクリニックにもやって来ます。その中の一人に看護婦さんに人気のナベちゃんがいます。彼の名前は渡辺貞夫さんといいます。呼び出しで「ワタナベサダオさん診察室へお入りください」とアナウンスすると、他の患者さんは一瞬あのナベサダかとあたりを見回すそうです。やがて悪い足を引きずって診察室へ入る同年輩だけどちょっと違うナベちゃんを、皆オヤオヤという表情で見送るのだそうです。ナベちゃんを初めて診た時、彼の足は腐りかけ、表情は苦渋に満ちていました。治療が奏功して良くなるにつれ、表情が明るくなり、毎日呼ばれると恵比寿様のような顔で愛嬌良く入ってきます。

 ある日診察の合間に「あんたは音楽好きかい?」と話しを向けると待ってましたとばかりにナベちゃんが「そーなんだよ、なんでもオレと同じ名前の奴がラッパ吹いてやがるんだよ!」と自分が迷惑でも被っている様なコメントです。なんかちょっと違うんでねえかい?という感じでした。そのチェリーのナベちゃんもそろそろ路上に戻るそうです。

 と言う事であまり関係ありませんが今回の話題は動脈硬化です。今から100年前に米国において近代の医学教育の基盤を作った偉大な内科医、ウィリアムオスラー先生の有名な「ヒトは血管とともに老いる。」と言う言葉があります。日本人の死因の一位はガン、2位は心疾患、3位は脳血管障害(脳卒中)ですが、心臓病と脳卒中の原因は動脈硬化によるものであり、この血管の動脈硬化性変化をいかに早期に発見し、血管が詰まってしまう重篤な疾患を予防するかという事が、死亡率を低下させるだけでなく、今はやりの抗老化(抗加齢)という点からも重要になってきます。

 動脈硬化はある年齢になって突然生じるものではありません。朝鮮戦争で戦死した20代の米国兵の解剖で、既に血管に動脈硬化が認められたと言う有名な報告がありますが、無症状のうちに知らず知らず高血圧の影響やコレステロールなどの脂質の血管壁へ沈着、喫煙習慣等により徐々に血管の壁が変化してしまいます。例えて言えば、長年使ったゴムホースが硬く伸展性を欠きボロボロになると、ある時水圧に耐えられず水漏れしますが、人体では脳出血や動脈瘤破裂という事になります。

 ところで動脈硬化は、その変化が血管のどの部分に生じているかによってアテローム硬化、メンケベルグ型硬化、小細動脈硬化の3つに分類されています。

 動脈の壁は輪切りにすると内側から内膜、中膜、外膜の3層からなっています。内膜は内皮細胞からなる一層の膜で、血管の中を通る血液に直接触れる為、血液で運ばれたコレステロールが蓄積しアテローム硬化(粥状硬化)と言うオカラの様な変化を来たし、その結果血管の内腔が凸凹して狭くなります。中膜は平滑筋と言う筋肉からなり、外膜は結合組織というしっかりした外皮の様な構造になっています。中膜が血圧に反応して筋肉組織が厚くなると、血管の内腔を狭めてしまいます。この変化が小さな動脈で起きると細小動脈硬化と言われます。これは血管の抵抗を高める為、高血圧や脳血管障害と関係した病態となります。
 メンケベルグ型動脈硬化も中膜に起きる病変ですが、中くらいの大きさの下肢等の動脈に生じ、中膜にカルシウム(石灰化)沈着を来たし、文字通り硬い血管となります。

 さて、従来一旦動脈硬化を起こした血管の変化である、血管が狭くなったり、土管や竹の様に硬くなった状態は、元に戻らないと考えられてきましたが、最近色々な研究から、それらの変化が多少元に戻る事が分かってきました。そこがゴムホースと違う人体の神秘です。もちろん若い頃の血管に完全に戻る訳ではありませんが、医学的に動脈硬化の改善である退縮(regression)と言われる現象が報告されるようになって来ました。すなわち動脈硬化の危険因子である高血圧、高脂血症、糖尿病等に対し、適切な薬物治療を行い、運動、食事等の生活習慣の改善を積極的に行うと、動脈硬化が退縮するとの事です。

 内膜の動脈硬化病変である粥状硬化は、文字通り柔らかい病変ですから改善する事は理解できるのですが、弾力性が低下して硬くなった血管が少しでも元に戻ると言う事は、正直言って信じがたい驚きでした。この研究はまだ緒についた所ですが、この事実は脳梗塞や心筋梗塞など動脈硬化の合併症で悩む患者さんにとって朗報であるばかりでなく、運動療法を推進する我々にとっては大きな励みとなります。

 そこで日常的に動脈硬化の程度、血管の硬さを知る事が重要になりますが、最近新兵器が登場しました。これは脈波伝搬速度(PWV)を測る器械で、硬い血管ほど拍動の伝わり方が速いという原理を利用し、心臓から送りだされた拍動の速度を体の2点(上腕と足首の動脈)で測定してPWV値を求めるものです。外来で簡単に動脈硬化の程度を知る事が出来、薬物治療、運動療法の効果判定に極めて有用な検査です。私達のクリニックでもこの検査を取り入れ、積極的に動脈硬化の治療に取り組んでいます。

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