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 第71回 「健康増進法を考える」

 先日、国会で健康増進法なる奇妙な法律が、全会一致で採択した事をある医療雑誌のコラムニストが、皮肉を交えコメントしていました。増え続ける医療費の増加に対して、診療報酬や、薬価の切り下げなど、財務省主導で厚生労働省が毎年医療費抑制策を打ち出してきますが、あまり効果が上がらず、ようやく禁煙など予防医学の重要性に気付いた結果なのでしょう。

 ところで国家が親切にも我々国民の身体をおもんばかって、増え続ける失業率や倒産に対する経済政策はさておき、早々と法律まで作ってくれて保護しようとしている健康ですが、歴史上いくつかの前例があるようです。古くはギリシャのアテネと並ぶ都市国家のスパルタが、健康で強い兵士を作る為、男子国民だけでなく女子も含め、食事、運動、武術を中心に、心身共に健康人を作る事を国家戦略にしました。その結果、スパルタはオリンピックの原型の競技会で優秀な成績を飾り、幾多の戦役では強い兵士を供給したようですが、国民が特に長寿で疾病も少なかったという記録は無く、学問、芸術、哲学など本当の国力の基礎となる分野では何も残す事ができませんでした。そして優れた指導者を得る事も無く「スパルタ式」という言葉だけを残し歴史から消えたと、塩野七生さんがローマの歴史の中で書いています。

 近代、国民の健康を国家的に最も推進した国は、ナチスドイツでした。第三帝国を支える優秀なアーリア人は、健全な精神と健康な肉体を持たなければいけないという視点で、ストイックなまでに細かく必要なビタミン、ミネラル蛋白摂取量の食事指導を行いました。ユダヤ人を国家の癌として徹底的に排除した許しがたい情熱と同じエネルギーを注ぎ、身体の癌の肺癌、乳癌、子宮癌の検診を国家的に行い、癌予防の観点であらゆる食品中の発癌物質を洗い出し、危険な食品を除いた食事療法を行ったそうです。ヒットラー自身が菜食主義者で若い頃はヘビースモーカーだったそうですが、ある時から禁煙し、アルコールも嗜まない禁欲的な生活を送り、ヒットラーユーゲントを始め、青少年に心身共に健全であるべく「スパルタ式運動療法」を推奨しました。

 ヨーロッパのタバコ資本がユダヤ系であった事もありそうですが、ナチスは早くからタバコの発癌性を始めとする健康障害に着目し、国家的に宣伝、広報、行政命令を駆使してタバコ規制を行い、禁煙運動を行いました。その結果、果たしてドイツの人々の健康が保たれ、癌死亡率も低く、平均寿命も他の国に比べて伸びたのでしょうか?自国民(ゲルマン民族)には健康を指導しながら、ユダヤ人を始め多くのジプシー、身体障害者、精神病患者を虐殺して、他国に不健康な害毒を撒き散らして十数年の歴史で崩壊したナチス第三帝国です。しかし、健康生活を送ったはずのドイツ国民は、第二次世界大戦後の食糧難で糖分、脂肪の摂取が減り、糖尿病や動脈硬化が減ったようですが、目標とした癌予防の効果は明らかにされていません。スパルタやナチスドイツの二つの国は、軍事国家を築く為、強い兵隊を作るように、国家的に健康増進を利用したと考えられます。

 
私はタバコをやりませんし、タバコは嫌いです。タバコの有害性も良く知っているつもりです。歩きながらくわえタバコの女性や未成年を見ると、思わずタバコをむしりとってやりたくなります。また生活習慣病で受診した患者さんには、積極的に禁煙を指導しています。しかしながら先日訪れたジャズのライブで、会場の客がジャズに酔いしれ、うまそうにタバコを吸っているのを見たり、仕事の後に満足げに一服している人を見ると、ささやかな楽しみを国民運動で規制するのもどうかと思ってしまいます。極端に規制し過ぎるとアメリカの禁酒法のように、タバコが麻薬並みに取引されギャングの儲け口になるだけかもしれません。健康は他から強制されるものではなく、まして国をあげての健康増進法など大きなお世話です。

 医療費の自己負担の増加で患者さんの医療機関への受診が減っていますし、区民健診の内容も費用削減で簡略化される傾向にあります。大して金のかからない訳の判らない法律を作るよりも、むしろ疾病予防の為、国民が質の良い充実した健診を受ける事が出来、気軽に運動やリハビリが出来、疾病に罹患した人が経済的負担が少なく、質の高い均一な医療体制をどこでも受けられる世界に誇れる健康保険制度を維持する事が重要だと思います。

 私は高血圧、糖尿病、高脂血症、肥満などの生活習慣病に対して積極的に運動療法を推進し、自らも実践している立場の医者ですが、疾病を持つ人に対して十把一絡げで、ただ運動を強制、指導するだけでは効果がない事を実感しています。各人の健康状態、体力に応じたメニューを作り、定期的に体重、体脂肪、柔軟性、血液検査、心肺機能検査等の効果判定を行い、きめ細かく辛抱強く指導する事が重要です。

 健康指導はアスリートを作る事が目的ではありません。輝くばかりの現役運動選手の肉体に目が奪われがちですが、プロの運動選手が特別長生きで疾病罹患率が低い訳ではありません。むしろ過激な運動は、フリーラジカルによって細胞レベルで酸化障害を起こし、老化が進行し、様々な疾患の元になる事も知られています。私には高橋尚子さんが健康的とはどうしても思えません。

 先日ある小さな学会で、わが国のうつ病研究と治療の第一人者という大先生の話を拝聴しました。講演の中でうつ病の治療に運動療法が有効であるという話がでました。私の経験ではうつ病の人は家に閉じこもり、運動から疎遠になる人が多いので、はたしてうつ病の人にどのように運動療法を動機付け、実際にどのように指導すればよいのか質問したところ、「うつ病の人は会社や学校に行かず時間があるので、フィットネスのジムに行くよう勧め、町の盆踊りなどもいいですね。」という立派なご返事で驚きました。厚生労働省のうつ病治療の責任者もされている大学者の運動療法に対する認識がこの程度ですから、国が健康増進法を制定したところで、運動療法の実践はお寒い限りという気がします。

 様々な疾患に対する本当の運動療法の指導者の養成が急務だと感じました。

【参考: ロバートN プロクター著 健康帝国ナチス 草思社】

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