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 第76回 「高血圧と降圧剤」

 今年も我が家の庭にバラが咲き始めました。花の香りをかぎながら思い出す事があります。30年も前の事になりますが、私達が新婚生活を始めたマンションの近くに、ある日小さな花屋がオープンしました。人のよさそうな青年が一人で始めたお店で、毎日朝早くから夜遅くまで休みなく働いていました。ある日の事、店が閉まっており、白い紙にマジックインキの踊るような字で「新婚旅行のためしばらくお休みさせて頂きます。」とありました。町の人は皆ほほえましい気持ちでその張り紙を見て通りました。しばらくして可愛らしい奥さんと2人で働く嬉しそうな青年がいました。遅くに店の前を通る私にも何時も「今お帰りですか?おやすみなさい。」と声をかけてくれました。私達はその店が気に入り、よくバラの花を買いました。

 その後2人には男の子ができ、日曜の朝には奥さんに見送られて野球に出かけるユニホーム姿の親子の姿を目にしたりしました。15年ほど経ったある冬に、2週間ばかり奥さんがマスクをかけて、つらそうに元気なく自転車に乗っているのを見かけました。風邪でも長引いたのかな?と思っていましたが、ある日の事、花屋が閉まっており、昔のように白い紙に「当分の間休業させて頂きます。」とありました。そして数日後、奥さんが急性白血病で急死した事を知りました。店の前を通ると一人で寂しげに働く20歳も急に老け込んだ感じの主人の顔をまともに見れず、なんとなく疎遠になりました。その後私達は転居し、すっかり花屋の事は忘れていましたが、家内が最近久々に昔のマンションに寄ったついでに花屋を訪れたところ、奥さんが亡くなって7〜8年たった今も、大きなポスターの様な彼女の微笑んだ写真が店の奥の壁に張ってあり、親子2人が仲良く元気に働いていたそうです。なんとなく安心した幸せな気分になりました。

 さて今回の医療情報は久々に高血圧の話です。

 最近次々と新しい降圧剤が市場に登場してきました。これらの新薬が実際にどの程度血圧を下げる事ができるのか?高血圧によって生じる脳卒中や心筋梗塞、心不全、腎不全などの病気をどの程度予防する事ができるのか?といった事を調べる大規模臨床試験という研究が、欧米を中心に行われています。この研究は、多くの患者さんを対象にした長年に渡る薬の効果の研究で、降圧剤の製造メーカーと各国の高血圧の治療学会や公の研究機関が中心になって行っています。ところで残念ながら我が国では、世界で通用する研究が未だ行われていません。高血圧人口が高く、降圧剤の消費量も世界で有数であり、多くの優れた専門家がいるはずなのに不思議な事です。

 最近の医療は医師個人の勘や経験だけに頼るのではなく、EBM(Evidence Based Medicine)と言う客観的な科学的根拠に基づく医療情報を元に、診断や治療が行われるようになってきました。先に述べた大規模臨床試験の結果が、EBMとして用いられてガイドラインになり、どの降圧剤を医師が選ぶかという根拠の一つになっています。

 最近の欧米のEBMの結果から『血圧は低ければ低いほど良い。』という考えが主流になってきました。欧米ではその目標達成の為に2〜3剤の降圧剤を使用する事が多く、2種類の降圧剤を合剤として一つの錠剤にした降圧剤も使用されています。

 従来、高齢者では血圧を下げすぎると却って悪い結果が生じるという事で、我が国のガイドラインでは降圧の目標は、70歳台では160/90mmHg以下、80歳台では170/90mmHg以下で良いとされていましたが、欧米のガイドラインでは高齢者も中壮年と同じく140/90mmHg以下で治療すべきと変わりました。自国のEBMを持たない日本のガイドラインも、そのうち右に倣えという事になると思います。しかしながら実際の診療現場では、色々な問題が生じてきます。例えば高齢者の血圧を若い人と同じように120〜130mmHg迄下げると、フラフラして立ち眩みを起こしたり、元気がなくなってしまう事がある為、わが国ではEBMはあくまでも参考に留め、各患者の全体像を出来るだけ把握しながら患者さんに合った降圧治療をする先生が多いと思います。

 またヨーロッパのガイドラインでは、降圧剤一剤で良好な血圧コントロールにある患者は医者への受診は6ヶ月に一度で良いとされています。医療費抑制を目論む厚労省や財務省が喜んで飛びつく話ですが、その間に起こるかも知れない合併症や事故は自己責任でどうぞという事になります。我が国の平均寿命は世界一であり、その要因には生活環境の充実など、いくつかの事が考えられますが、高血圧、糖尿病、高脂血症などの病気を放置せず2〜4週間に一度、医療機関を受診して検査を受けながらきちんと治療を受けている患者さんが多い事も、その一因であろうと思っています。そういう意味では患者さんに大量の薬を処方して「次は半年後にどうぞ。」というガイドラインをそのまま、我が国に受け入れていいのか考えさせられます。

 また高血圧の発症には塩分の関与が知られていますが、塩分感受性に人種差がある事が知られています。すなわち米国の黒人と日本人は塩分感受性が高く、食事の塩分制限や、比較的安価な従来からある降圧利尿剤が効果的な事が多いと考えられています。一方白人は塩分の関与よりも、レニン・アンギオテンシン系という血圧を上昇させるホルモンが関与している事が多く、このホルモンを抑制する新しい降圧治療が有効です。遺伝子の研究が進めば個々の患者の血圧に塩分の関与が大きいのか、ホルモンの関与なのかをあらかじめ調べて、個々に合った降圧剤を選択する事ができるのですが、まだまだ将来の話であり、降圧剤の選択は一律に降圧効果が強く、持続時間が長い新しい降圧剤が選ばれる事になります。

 また最近の研究で、降圧剤は長期間に渡って服用する薬なので、単に血圧を下げる効果だけでなく脳、心臓、腎臓などの臓器の保護効果があるものが良い薬であるという考えが主流になってきました。欧米人では心筋梗塞の発症が我が国の4〜5倍ですから、心臓に保護的な降圧剤が第一に選択される傾向がありますが、逆に脳卒中の発症が欧米よりも多い我が国では、脳血管に保護的に作用し、脳卒中の予防効果の高い降圧剤が第一に選択されるべきです。しかしながら充分なEBMがない為、欧米のガイドラインに従って降圧剤が選択される事になります。日本人を対象にしたEBMを基に、借り物でない我が国独自の高血圧の治療ガイドラインが望まれます。

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